六ヶ所村 尾駮の牧 歴史研究会

Rokkasyomura obuchi no maki rekishi kenkyukai



尾駮の牧とは

今から千年余り前の10世紀中ごろ、平安時代中期に村上天皇勅撰(ちょくせん)の 『後撰和歌集』で初めて尾駮の駒が詠まれました。
摂政、関白に任じられた藤原兼家や女流歌人・相模ら都人によって、鎌倉初期ごろまで尾駮の駒は名馬として歌われ続けました。

その尾駮の駒を都へ提供したのが、当村にしか地名が残っていない尾駮を含む小川原湖北岸の六ヶ所台地ではないかと、 『尾駮の牧』歴史研究会 は仮説を立てました。

『後撰和歌集』<天暦5年(951)>

みちのくのおぶちの駒ものがふには荒れこそ増されなつくものかは

詠み人知らず


『後拾遺和歌集』<寛仁3~4年(1019~20)頃>

綱絶えてはなれはてにしみちのくのおぶちの駒をきのう見しかな

相   模

「青森県史」にも記載があるように、当村の平安時代の集落は9世紀後葉から10世紀初頭に忽然と始まり、11世紀まで続いたとされています。
尾駮の駒が古歌に登場し始めた時期と一致しています。

掘立柱建物跡に議論

当村の発茶沢遺跡では、竪穴住居に付随する掘立柱建物跡を馬屋だったという見方があります。ただ、馬に関連する遺物が出土していないために否定的な見解も多いのです。しかし、当研究会が2012年12月2日に村内で開いた「六ヶ所村歴史フォーラム2012」で、松本建速・東海大学教授(日本考古学)は 結論を導くにはさらに調査が必要だと指摘されました。

一般的な馬屋には床面全体を掘り下げる「尿だめ」を作るなど、し尿処理の工夫があります。
同遺跡の掘立柱建物跡の場合、これまでは平らな床面だったと認識されていましたが、当時の推定地表面を基準にすれば建物跡はいくらか 掘り込まれていたと推測できるそうです。

火山灰由来の黒ボク土の土地にヤマセが吹く当地域は馬産に適した風土だったとみられますが、雪深い冬の間は馬が戸外で餌を 探すのは容易ではありません。
 一方、当村と同じ多雪な秋田の米代川流域や津軽地方の山間の馬産地には、より古い時期から発茶沢遺跡と同様の建物がありました。 耐雪施設との説が主流ですが、松本教授によれば、建物の数が少ないので単なる耐雪用とは思えないとのことです。  掘立柱建物跡は、多雪地帯で特別な馬を飼うため生まれた施設だった可能性があります。
そうした知恵を知る人々が六ヶ所に移り住み、 尾駮の駒を育てていたとも考えられます。

その他 PDF資料

※東奥日報、デーリー東北様より掲載許可承認済み

『ミステリアスな歴史・古代の六ヶ所村』(第1~6回)

『南部 馬と人』(デーリー東北 H26年1月23日掲載)

2013年(平成25年) 2月7日 東奥日報掲載

2013年(平成25年) 2月8日 東奥日報掲載

「尾駮の牧」と奥地の俘囚・安倍富忠とのつながりについての一考察(『東奥文化』81号掲載)

「尾駮の牧」の一試論(『東奥文化』82号掲載)